Soka Spirit

断簡1 タコの心

明治時代の廃仏毀釈

阿部信雄は泣いていた。

「深川に 蛸一匹の 浮き沈み」

 阿部は、はらはらと涙を落としながら酒をぐいっと呑み、若い僧侶に言った。

「この歌を思い出すたび泣けるんだ。おい、泣けてこないかい」

 聞かれたほうは生返事をするしかなかった。

「なんの歌なんですか?」

「おい、知らないのか。これは日応上人の詠まれた歌だよ。この歌の心がわからなくては、坊さんはつとまらんぞ」

ここで泣いている阿部信雄は、のちの阿部日顕。〝御法主上人猊下〟という、まるで人間らしからぬ呼び方をされ、ほとんど仏に近い存在となる。いや失礼、今の日蓮正宗の諸君にとっては、御本仏・日蓮大聖人と肩を並べる〝生き仏〟であった。その高邁な御方が滂沱の涙を流されたということなのだが、今ひとつ歌の心がわからない。まして主人公がタコとなると、なおさらである。

この歌を詠んだ大石日応は、大石寺の第五十六世貫首。大石寺がいまや邪宗呼ばわりしている北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、京都要法寺などと日蓮宗興門派を形成していた頃、明治二十四年四月七日から一年間、大石日応は同派の管長を務めたことがある。大石日応はこの興門派管長の座を京都要法寺の坂本日珠に譲った。

日蓮宗興門派は明治三十二年二月十五日、本門宗と改称した。翌明治三十三年九月十八日、大石寺は本門宗から離脱し、日蓮宗富士派と名乗った。この富士派の初代管長が大石日応である。それより二年前の明治三十一年、大石日応は日蓮宗富士派総本山弘教所を東京・文京区西片に作った。まだ深川には行き着かない。同弘教所が深川に移ったのは、明治三十五年五月のことだった。例の「タコ」の歌は、これ以降に詠まれたことになる。

この頃の大石寺——。

明治新政府になって、廃仏毀釈が盛んになった。廃仏毀釈とは、仏教寺院や僧侶を無用のものとして排斥する運動のことである。その原因は、僧侶の生活が華美で乱れていること、高額の戒名料、葬儀・法事・普請などにことよせて僧侶が布施を強要したことにあった。

廃仏毀釈は江戸時代にもあった。江戸時代、寺院は思想警察という役割の上に、戸籍係、住民係なども兼ねていた。当時、キリシタンは御禁制であったため、寺院は住民に対し、キリシタンに非ずとの証明(寺請証文)を発行していた。この寺請証文がなければ、結婚も就職も旅行もできなかったのである。その権限を笠に着て、僧らは布施を民衆に強要した。

江戸時代には散発的に起こっていた廃仏毀釈の動きは、明治新政府になって、幕府—寺社奉行—本山—触頭—末寺といった統制システムが崩壊したことによって、一気に噴出する。幕府という後楯を失った寺院に対し、民衆の不満が爆発したのである。

明治五年には太政官布告第一三三号が出された。「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手である、ただし、法要以外の時は人民一般の服を着用してもかまわない)。こうして僧侶の妻帯が認められると、出家は裏に隠していた女を女房としたり、新しく女房をめとったり、肉を食べたり、まさにタガが外れた状況になってしまった。民衆の側からすれば、これは納得できないことだった。

数年前まで、自分たちを思想的に取り締まっていた僧らが、女犯、肉食を平然とおこない、破戒坊主となっている。もはや毫末の畏敬の念も、持てなくなった。

加えて明治六年には、キリスト教禁止令が解かれ、寺院が寺請証文を出す根拠もなくなった。これまでの抑圧の反動が一挙に高まった。

日露戦争勝利を祈願し、一万幅の御本尊を宗内外に配る

この明治時代の廃仏毀釈によって、棄却された寺院は、全国の寺院の半数にも及ぶ。

大石寺もさびれにさびれていた。下山日布は第五十五世大石寺貫首で、明治七年より同十八年まで在任した。この下山日布の時代、大石寺は荒寺であった。五重塔の銅瓦を、トタンのほうがいいということで葺き替え、銅を高く売って飲み食いに費やした。大石寺の中に酒樽を並べ、飲み放題、食い放題。当然、新政府によって許されたことにより女人も自由に出入りするようになった。この当時、大石寺の地元では、

「大石寺だというと、もう、鹽一升もかさない」(『大白蓮華』昭和三十一年十二月号掲載「堀上人に富士宗門史を聞く(二)」より一部抜粋)

と言われていた。借金をしながら飲み食いし、その借金も踏み倒していたのである。

この惨状を打開するため、大石日応が管長になってから、大石寺の弘教所が西片に作られた。明治三十一年のことである。

弘教所は西片から、浅草小島町、深川森下町、深川東元町と住所を転々と変える。弘教所は法道会と呼ばれ、のち法道院となり、現在は東京・池袋に所在する。ただし、大石日応が生きている間は深川を根拠としていた。

深川といえば、深川芸者。深川には江戸時代「深川七場所」と呼ばれた、非合法の「女郎屋」があった。深川芸者は、深川が江戸城から見て辰巳の方角(南東)にあるため、「辰巳芸者」とも呼ばれていた。

大石日応の信者にも、このような花街に関わる人が多くいた。阿部日顕の祖母・彦坂ぶんは、場所は違うが文京区白山の色街にいた。彦坂ぶんは石川某の妾。日顕の母・彦坂スマ(のちの妙修尼)は妾腹の子である。このようなこともあってか、母娘は大石日応に教化される。

明治三十七年二月十日、日露戦争が開戦した。その直後の三月十二、十三日、大石日応は「皇威宣揚征露戰勝大祈禱會」をおこなった。

「尚ほ法道會に於ては兩日參拜者の淨財を總べて軍資金の内へ獻納しまた戰勝守護の御本尊一萬幅を特志者(ママ)に授與せられたり」(『法乃道』〈のりのみち〉明治三十七年四月発行、第拾貮編)

日露戦争の必勝を祈念して、御本尊一万幅を授け、集められた金を軍に献納したのだ。祈祷会の模様については、次のように書かれている。

「今其景况を記さんに十二日は曇天なりしも兼ねて廣告並に建札等の手配行届きしを以て自他の參拜者陸續と詰掛けぬ而して須彌壇は最も質素に而かも嚴正に荘嚴せられ期定の時刻に至り法主日應上人は僧衆を隨へて法席に就かせられ宗祖大聖人眞筆大御本尊を開扉し讀經唱題等如法の式典を行はせられ尋で教會擔任教師早瀬慈雄は演壇に立祈禱會執行の旨意を演べそれより有元氏土屋慈觀氏並に法主日應上人の演説ありたり」(同)

ここで注意すべきは二つある。一つは「自他の參拜者」という表現と、「宗祖大聖人眞筆大御本尊を開扉」と書かれていることである。「自他」ということは、自宗他宗の参拝者。その者たちに日蓮大聖人お認めの御本尊を開扉し、戦勝を祈願したというのである。

また「戰勝守護の御本尊一萬幅を特志者に授與」したということだが、この当時の法道会の機関誌『法乃道』は、三千部しか刷られていなかった。最低七千幅の御本尊は、信者でない者に与えられたのである。

大石日応はなぜ、このような「大祈禱会」をおこなったのか。戦争を翼賛することにより、世間の受けを良くしようとしたと考えられる。だが、もっと違う「信仰信念」が大石日応にはあった。『法乃道』(明治三十八年八月発行)には、次のような文章がある。

「吾日本國に前代に未だ在しまさざる聖天子出現在しまし大詔を下して彼の暴悪なる露國を始とし遂に歐米諸國をも併呑し是等の諸國を吾か属國となし吾が 天皇陛下をして世界の大王仰しむるの時には一人の聖人出現して此の大法を世界に廣布せしむべきなり今既に巳に其の時機なること經文顯然なり若し爾ば吾國の他國に向て干戈を動かすこと彼の露國を剿滅し城下の誓をなすに止らずして獨佛等の各國とも戰鬪を開く時機敢てなきにあらず」

なんともノー天気な広宣流布観である。ロシアのみならず、ドイツ、フランスなどのヨーロッパ諸国、そしてアメリカと戦争をして負かし、属国にするというのである。そこで、「一人の聖人出現」して世界広布ができるというのである。日蓮宗富士派(のちの日蓮正宗)の広宣流布観はこの程度のものだったのだ。

創価学会に毒を注入しようと図った日顕

さて、ここまで歴史をたどってみて、タコの歌の詠み人の気持ちが、ややわかるような気がする。総本山大石寺は荒寺。布教の足がかりもないような深川で、大石日応は「浮き沈み」していたのだ。

だが、阿部信雄(日顕)の泣く理由がわからない。祖母の彦坂ぶん、母のスマが大石日応に教化されたことをあわせ考えても、まだ泣けてはこない。

阿部日顕は、父・阿部法運(日開)が東京・向島の常泉寺住職をしていた時、下働きをしていた彦坂スマとの間にできた子である。昭和三年六月二日、阿部法運が管長となり日開と名を改めた直後の六月二十三日、日顕は日開の子どもとして認知された。認知の二カ月後、日顕は得度する。

阿部法運が管長になった頃も大石寺は貧しかった。食うのに精一杯だったのである。

日顕が大石寺に来たのは小学生の時。母・スマに連れて来られた。この時の母子の姿を見た者は、これが法主の妻子かと驚いたそうだ。日顕が乞食同然の姿で大石寺にやってきたからだ。

ここまで来て、タコの歌に泣く日顕の気持ちがやっとわかるような気がする。食うために法を説かなければならない、切ない坊主の心である。

ところでタコ。タコは生物学的には、軟体動物・頭足綱・二鰓類・八腕形類に分類されている。

なんとタコ。タコは無脊椎動物の進化の頂点に立っているというのだ。脊椎動物の頂点はヒト。タコ、侮りがたし。

タコは俗に八本足というが、あれは足ではなく手。西洋ではデビル・フィッシュ(悪魔の魚)と呼ばれている。

タコが蟹や貝を捕食する様は注目に値する。貝が固く殻を閉ざしている場合は、歯舌と黒い爪のある口(俗に「カラストンビ」)で穴を開け、その穴からチラミンという毒物を注入する。毒で麻痺させた上で、生肉を吸い出し食べ尽くしてしまう。蟹にも同様の手口を使う。

弱いものにはそのような挙に出るが、危ないとなるとスミを吐いて逃げる。またタコは、周りの色に合わせ七変化するといわれている。さすが、無脊椎動物の頂点に立つ生き物と呼ばれるだけのことはある。

しかし、最も恐るべきは、タコ的人間である。

タコの「頭」が、実は臓物の入った袋であることはよく知られている。言うならば、欲望の詰まった袋。タコ的人間の場合は、頭に慈悲が詰まっているように見せているが、実は中身は煩悩のみ。

平成二年十二月二十一日、創価学会は三重県白山町の仏徳寺を日蓮正宗に寄進した。この時、〝法主〟の日顕は次のように述べている。

「本日は、創価学会より御寄進の総本山開創七百年記念末寺建立御供養の内、当地に当寺を御寄進いただきまして、落慶入仏法要を奉修いたした次第でございます。仏祖三宝にも深く御嘉賞あそばされるところと存ずるのでございます」(『大日蓮』平成三年二月号)

だがこの言葉とは裏腹に、日顕らはすでに創価学会を切り崩す謀略をめぐらせていた。

先立つこと同年七月十六日、文京区西片において、日蓮正宗管長・阿部日顕を中心に総監・藤本日潤、庶務部長・早瀬義寛、大石寺主任理事・八木信瑩、北海道大布教区長・河辺慈篤、渉外部長・秋元広学、海外部主任・関快道の総勢七名が集まった。同月十八日、同じメンバーが大石寺大書院においても謀議をした。内容は、創価学会をいかにして破門し、信者だけをいただくかというものであった。いわゆる「C作戦」(創価学会分離作戦)の謀議である。

殻はいらぬ、身だけくれ、というタコの本能そのものである。

〝暑い夏の夢想〟。

この欲望に突き動かされ、日顕らは八本の手を密かに伸ばし、吸盤で吸い付き、創価学会に毒を注入し、檀徒獲得の機会を狙っていたのだ。

タコ的人間、すなわちタコ坊主。仏法上では暗禅の法師、法滅の妖怪。

タコの心になっていなければ、あの歌に共感の涙を流すことはなかった。

ここで、タコの心を詠った〆の句を一つ。

  蛸壺や はかなき夢を 夏の月(松尾芭蕉)